オツイチ小説再生工場 工場日誌

読者参加型企画『オツイチ小説再生工場』の途中経過と、作家・乙一の謎に包まれた日常がわかる、乙一さん公式ブログです。

2015年10月09日(金)

妥協しないマッドマックス感想



もうすぐ映画「マッドマックス怒りのデスロード」のブルーレイやDVDが発売される。いい機会だから感想を書くことにした。Twitterなどでもいくつか感想を書いていたけど。長くなるといけないのでこちらにまとめておこうかと。

この映画は「マッドマックス」シリーズの数十年ぶりの新作だ。四作目にあたる。僕は特に「マッドマックス2」が好きだったので、新作が公開されると聞いたとき、すこしこわかった。思い出補正のせいで、今回の新作がたのしめないんじゃないかとおもったのだ。しかしそれはまったくの杞憂だったし、好きすぎて何回も劇場で観ることになった。ひまな時間があるとこの映画についての考察をしていた。ネットを検索していろんな人の意見をながめた。以下、ネタバレありで感想を書いてます。




1、ニュークスはインポテンツではないのかな


この映画のラスボスであるイモータン・ジョーが死んだとき、「あっさり死にすぎじゃない!?」などとおもったものだ。だけど今は、あの死に様が、論理的に導き出された結果だとおもっている。たぶん他にもいろいろな決着の仕方が検討されたはずだが、監督は意味をこめてあのような決着を望んだのだろう。

この映画をはじめて見たときの印象は、口についてのイベントがおおいなということだった。主人公のマックスは口枷をはめられているし、ラスボスのイモータン・ジョーは口を剥がされるような形で死ぬ。ウォーボーイズは自己をふるいたたせるとき、口に銀色のスプレーをふきつける。これらは偶然だろうか。初見時、ウォーボーイズが口に銀スプレーを吹きかけはじめたとき、何でや、とあっけにとられたものだ。口でなければならない理由とは何だろうか?

そんなことをかんがえていたとき、あることをおもいだした。「口というものは人間の動物的な本能や性的な欲望を象徴する器官である」という分析である。夢判断の本だったか、人間の深層心理の本だったか、よくおぼえてないけど。たしかに、食べる器官である口は、人間の動物的な部分をおもわせるし、性的な部分でもあるだろう。「目は知性を象徴する部位であり知性の高い宇宙人のデザインをする際は目が大きくなる」という話もあるが、映画「エイリアン」に登場する獰猛なエイリアンは目を排除されて性器に口がくっついたようなデザインだ。監督はそういう暗示を利用して語ろうとしているのかもしれない、と仮定して、読みといてみることにした。

【口=性的な欲望】とするなら、口枷で口を封じられているマックスと、イモータン・ジョーの死に様は、去勢的な意味合いを持つに違いない。また、それと反対に、口を銀色のスプレーでコーティングして、自己をふるいたたせて、突撃し、天国へいくウォーボーイズたちの儀式は、つまりそういうことなんだろう。去勢とは真逆の。これをTwitterで書いたとき、しりあいからこういうリプライがきた。「ギンギンというわけですね銀スプレーなだけに」。

これが正解だとするなら、監督がニュークスに託したおもいが感じられてくる。
ニュークスというキャラクターは、作中で何度も口に銀スプレーをふきかけてふるいたたせる。だけどそのたびに失敗してしまい、突撃できず、天国にはいけないというキャラクターなのだ。悲しい。彼は性的不能なのかもしれない。なかなかうまく大人になることができない少年のような存在だ。だけどおもいだしてほしい。彼は最後にようやく自己実現ができる。そのとき、ウォーボーイズたちがやっていたような、銀スプレーの儀式をやっていないのだ。ここがこの映画の意義深いところである。彼は宗教的なシステムのなかではなく、人間的な愛情によって死をのりこえるからだ。

では、マックスとイモータン・ジョーの去勢的な暗示は何を意味するのだろう。うまくかんがえがまとまっていないのでここには書けない。だけど、マックスとイモータン・ジョーが対の存在になっていることはまちがいない。マックスが子どもをうしなった父親という設定であるのに対し、イモータン・ジョーは作中で唯一の父親として描かれている。マックスの口枷を外す道具をあたえたのはフュリオサであり、イモータン・ジョーを去勢したのもまたフュリオサである。両者はフュリオサという人物によって合わせ鏡のようになっているらしい。そこから見えるメッセージについておもうところはあるけど妄想の域を出ない。







2、マックスの影がちょっと薄いけど構造はある


この映画の主人公はマックスではなく、シャーリーズ・セロン演じる大隊長フュリオサだと言われている。この映画の原題は「Mad Max: Fury Road」でもありフュリオサという名前にひっかけられている。マックスとフュリオサの関係性には胸打たれるものがある。最初に見たときはもうくっついてしまえばいいのにとおもったけど、ちょっと待てよと、かんがえたことがある。この二人が恋愛関係でむすばれることはあるだろうか。一緒に戦闘をくぐり抜けたことがそもそも映画的な意味合いでそれにあたる、とそれまではかんがえていたけれども、もしかしたらちょっといろいろと見落としていたのかもしれない。マックスはフュリオサのことを恋人として愛するような脚本構造ではなさそうだ。

そんな風にかんがえるのは、マックスというキャラクターについて検討してみた結果である。そもそもマックスという人物は、子どもをうしなって狂気に頭がどうにかなってしまい砂漠をいつまでもさまよいつづける幽鬼のような存在だ。子どもを亡くした父親=マックス。監督が何かのインタビューでこんなことを言っていた。「この映画はマックスが他人と関わることで癒やしを得る物語だ」と。マックスはフュリオサたちに関わることで、口枷がはずれてほんとうの顔を得る。名前を口にして、人間としての自分を取り戻す。それがこの映画におけるマックスの物語の落としどころだと解釈されている。だけど、すこしだけ引っかかっていたことがある。

マックスの前に現れる少女の亡霊のことだ。この映画においてマックスは、度々、亡霊を見てしまう。亡霊たちの声が頭のなかに響いてくる。過去に起きたひどい出来事をずっとひきずっていて、心がむしばまれている状態だ。特に何度もくり返し見るのは少女の亡霊というか幻覚みたいなものである。少女の亡霊がマックスのことを「パパ」と呼ぶ場面があるので、一作目で死んだ子どもの亡霊なのかなと初見ではかんがえた。でも、一作目で死んだのは息子でしたよね。そのあたりは、まあ、設定変更したのかな、などと解釈した。だけど聞くところによれば、今回の映画には前日譚があって、そこにこの少女が出るとか出ないとか。あれ、ちょっと待って。

そこは息子の亡霊じゃいかんかったのか?

引っかかっていたのはそれである。前日譚があるとはいえ、数十年ぶりの新作でいきなり少女の亡霊を出すのは説明不足なんじゃないのか。息子の亡霊だったら一作目を見た観客はすんなり理解できるだろうし、実際に血を分けた子どもを亡霊として出した方がいいんじゃないかとプロデューサーから提案はなかったんだろうか。だけどたぶん、息子の亡霊だといけなかったのだ。この映画のシナリオには、少女の亡霊であることが、必要だったのだろう。

物語を作る側にたってかんがえてみる。子どもを失った父親という存在に、何らかの癒やしがあたえられるとしたら、どんな方法があるだろうか。失った子どもが生きかえってきて再会する? 子どもの生まれ変わりにも見える存在に出会う? だけどそれは非現実的だ。子どもが生きかえって目の前にあらわれるわけがない。だけど、もしかしたら、この映画はそれを描いたのかもしれない。それがつまりフュリオサのことである。

マックスがフュリオサに対して、自分の名前をはっきりと口にするのは、自分の血をフュリオサの体内に流しこんだ直後である。フュリオサが生きていくことは、血を分けた存在が生きていくことを示す。それは擬似的な父と子と言えないだろうか。かつて救えなかった少女のかわりに、マックスはフュリオサを救ったのである。息子の亡霊ではなく、マックスのことを「パパ」と呼ぶ少女を出す必然性は、そこにあるんじゃないかとかんがえた。フュリオサと同性の亡霊にすることで、マックスの物語に、父性の獲得といったテーマが浮上し、それはイモータン・ジョーの物語と呼応する。もしも少女の亡霊ではなく息子の亡霊だったなら、おなじく血をわけたニュークスの方に焦点があってしまい、構造がぼやける。

というわけで、マックスとフュリオサの関係は、男女の恋愛関係ではなく、父娘の関係だった可能性がある。この映画でマックスを演じているのはトム・ハーディだが、もともとは一作目から主人公を演じているメル・ギブソンに依頼されていたという。メル・ギブソンがマックスを演じていたなら、年齢差的に父娘に見えていたかもしれない。ところでマックスの側だけでなく、フュリオサの立場からしても父娘の関係性には意味がある。砦にいた者にとってはイモータン・ジョーが権威的で父親的な存在だったかもしれないからだ。フュリオサはイモータン・ジョーという父的存在を去勢し、マックスという父的存在を獲得したという見方もできる。

シナリオ的に見るなら、マックスの物語構造は、失った子どもをまた新たに獲得することで完結する。フュリオサを救ったことで彼を悩ませていた亡霊がすっかり消えてしまった様子が付け足されていたなら、そのあたりも明確になったはずだが、たぶんそれは蛇足だった。今ぐらいのあいまいさがちょうどいいとおもう。男女にも見えるし、父娘にも見えるし、そういうゆらぎがいいとおもう。かんがえすぎだろうか。

それにしても、この映画を見た者は「輸血袋」という単語の素晴らしさに気付かされただろう。人間を輸血袋にするなんていかれてる、最高、とおもったにちがいないし、僕もはじめのうちはそうおもっていた。だけど、上記のような物語構造がかんがえすぎじゃなくて監督の意図したものだったとしたら、、、 フュリオサに血をわけて擬似的な父子になるというイベントが先にデザインされて、輸血袋のアイデアが後で導き出された可能性もある。輸血袋のアイデアは、頭のいかれた人の突拍子もない発想ではなく、物語を冷静に構築する論理の結果ということになり、何やらずば抜けた知性の足跡が見えて、ぞくっとする。




3、イモータン・ジョーが独占していたのは水ではなかったのかもしれない


「マッドマックス」はバカ映画としての側面もしっかりと持ち合わせている。何回観ても、ここはやりすぎでは、とおもう場面がある。僕の場合、イモータン・ジョーが妻たちを住まわせていた部屋の扉だ。巨大な金庫の扉みたいになっているのだ。やりすぎ感があっておもわずわらってしまう。それなのになぜか観た人のおおくが、この映画には知性を感じる、と言っていた。バカなのに頭が良さそう。不思議な映画である。

ところでイモータン・ジョーはどうやら元軍人らしい。wikiを読んでから映画を見返すと、勲章を体にくっつけている。彼は独裁者としてうまくやっていた、という感想をいくつか耳にした。水を独占する悪い奴に見えるけど、きちんと人々に水を分け与えているし、システムをつくって砦の運営をしている。では、彼の何がいけなかったのだろう。この映画は行って帰ってくるだけの話だ。映画の最初と最後で何も変わっていないように見えるかもしれない。砦を運営しているボスが、イモータン・ジョーからフュリオサにバトンタッチされただけで、結果的にはそれまで通りなんじゃないか、とおもわれるかもしれない。たしかに水の量が有限だったとしたら、それまで通り計算しながら分け与えなくてはならないだろう。だけど最初と最後で決定的に異なる点が存在する。それはイモータン・ジョーの妻たちだ。

イモータン・ジョーには何人かの妻がいて、フュリオサが彼女たちを逃がそうと行動するのがこの映画の発端である。監督によれば、悪者たちが追いかける宝を、女という存在に設定したのだという。囚われていた妻たちは逃亡劇のなかでそれぞれに役割を見いだしていくのだが、その場面で胸が熱くなる。この映画の女性たちはつよい。そして、ちゃんとした教育を受けている雰囲気もある。ウォーボーイズたちよりも人間的な言動や表情をする。詩心があり、数も数えられる。彼女たちが住んでいた部屋の床には、紙の本が積み上がっている。また、作品世界が神話的で抽象的なこともあり、それぞれの妻たちにある種の記号性が付与されているようにも見えてくる。漠然とした印象だけど、愛であったり、祈りであったり、人類がかつて持っていてそれでいて失われてしまったものが、すこしずつ妻たちのなかにのこっていて、フュリオサはそれを奪ったから、イモータン・ジョーは追いかけたのかもしれない。

映画の初見時、物語の後半にある、妻の一人とおばあちゃんの会話が引っかかった。妻のひとりが「撃ち殺して奪うのね」みたいな台詞を言ったあと、おばあちゃんが、はっとした表情を見せる。そしておばあちゃんは故郷の植物の種を見せて「昔は殺さなくても生きて行いけた」という話をする。初見時はうまく察することができなかったけど、あのおばあちゃんは、今の世代の子どもたちをあわれんでいたのかもしれない。「生きるためには殺して奪うしかない」という世界しか今の子どもたちはしらないのだ、と気付いておばあちゃんははっとした顔をしたようだ。だから、それ以外の生き方を人類はかつておこなっていたのだ、という知を授けたのだろう。このエピソードは砦にまつわる物語構造において重要な転換点だ。妻たちは砦にいたときはしらなかった世界観を持ち帰ることになる。

映画の最後、フュリオサが砦にもどったとき、変化したことがあるとするなら、イモータン・ジョーが金庫に閉じこめていたものが解放されたことだろう。それは床に積まれていた紙の本であり、教育を受けた妻たちのことである。フュリオサがもどってきたとき知識は解放されたのだ。イモータン・ジョーは独裁者として何がいけなかったのか。彼は金庫のむこうがわに、かつて人類が持っていた文明的な教育の機会をかくし、人々に公開しなかった。彼は金庫の奥に教育をかくし、人々を無知なままにしておくことで支配者として君臨していた。映画の表面上では、イモータン・ジョーが独占していたのは、水だったように見える。だけどシナリオの奥まったところでは、彼がほんとうの意味で独占していたのは、教育そのものだったのではないか、という考察でした。

それにしても、銀スプレー、輸血袋、金庫の部屋、というようなバカ設定が、すべて物語の構造に関係してくるのにおどろかされた。というよりも順番は逆で、物語を語るためにあれこれと思案した結果、導き出されたアイデアだったのかもしれない。この映画に登場する視覚的な道具で物語に意味のないものは存在しな……、いや、ちょっと待て、ドゥーフ……、あの車をどう解釈すれば……。よそう。あれにも、何らかの深い意図がかくされているのかもしれない。


最後に近況です。すこし前に小説『Arknoah2 ドラゴンファイア』という本を刊行しました。冒頭部分に砂漠を舞台にしたチェイスがあって、機関車にのってドラゴンと戦ったりするんですが、『マッドマックス2』を思い浮かべながら執筆したんです。竜巻のなかに突入する場面があり、今回の映画の予告編を見たときにネタがかぶっちまったとあわてたものです。もしよければ買ってください。



Posted by 乙一 at 12時26分

2013年07月07日(日)

急におもったけど


『本の旅人』という雑誌にエッセイを書きました。
まだこれから出版されるやつです。
作家デビューした直後の顛末をおもいだしながら書いたのですが、
急に不安におもったことがありまして、、、

その昔、インタビューで、
「ワープロの練習のために小説を書き始めた」
というような回答をしたんですよ。
だけどもちろんそれだけじゃないですよ。
賞金もねらっていましたよ。
昼ご飯を抜いてライトノベルを買っていたような金欠状態でしたから。
あかほりさとる先生の本は一日で読んでしまえるし、
次々と発売されるので、慢性的にお金が足りなかったんですよ。
バイトもしてなかったし。
だけど「ワープロの練習のために」というのもほんとうなんですよ。
ワープロもパソコンもほとんどあつかったことがなくて、
タイピングというのは英語を話すくらいむずかしいことだとおもいこんでいたんです。
タイピングの特訓のために何か文章を作ろうというのが、
小説を書き始めるときの動機のひとつではあったんです。あと賞金。


で、不安におもうこと、というのは、今さらなんですけど、
「ワープロの練習のために書いた小説で作家デビューしました」
という表現になると、
なんだか自分の天才性をアピールしている人みたいで痛いぞとおもったんですよ。

今さら不安になってきたんですよ。
インタビュアーの方に、天才性をアピールしているとおもわれたんじゃないかと、、、
「みんなが必死に努力して作家デビューを目指しているところもうしわけないけど、僕はワープロの練習で書いた小説でさくっとデビューしちゃったんです」
という風に受け取られていたらどうしようかと。
急に、エッセイを書いていて、そうおもったんですよ。


ちがうんですよ、、、
ああ、、、






……というブログを書いたところ、
「一日で読んでしまえる」という表現はあかほり先生に対して失礼にあたるのではないか、という不安が浮上しました。
「読みやすい」「おもしろい」という意味で書いたのです。
念のため、追記でした。

Posted by 乙一 at 18時34分

2013年07月05日(金)

新作『Arknoah1 僕のつくった怪物』発売

画像(320x240)・拡大画像(640x480)

どうも、乙一です。



本日、7月5日に新刊本が出ます。
『Arknoah1 僕のつくった怪物』という長編小説です。
これまでに書いた小説のなかでもっとも枚数がおおいです。
昔は短編ばかり書いていたのに、
いつから長編も書くようになったんでしょうか。
はじめてのシリーズものです。三部作を予定しています。
現在、次巻の『Arknoah2』を執筆中です。1/3くらいは書き終わりました。
今年中はたぶん無理ですが、
来年あたりに出るんじゃないかなと期待しています。

このArknoahシリーズ、ジャンルは異世界ファンタジーものです。
主人公が異世界にまよいこんで冒険をするというありがちな話です。
僕がライトノベルをたくさん読んでいた十代のころ、
こういう作品が非常におおかったのです。
16歳のとき、はじめて執筆した小説も、
ドラクエみたいな異世界ファンタジーものでした。
一次選考で落ちました。ひどい出来でした。
長編の異世界ファンタジーものは、それ以来となります。
(短編は一度だけ書いたことがあります)

いつかまた異世界ファンタジーを書こう、
とおもっていながらこんな年齢になってしまいました。
34歳です。頭髪の数が減少しています。
「乙一さん、将来、ハゲますよ」と、
滝本竜彦先生に言われたことがあります。
それが現実となってきました。
最近、帽子でかくしています。
でも、そんなことはどうでもよくて、
異世界ファンタジーに挑戦する機会のないまま年数がたってしまいました。
はじめて小説を執筆したとき、

「現実社会のことはなにもわからないから、
 現実社会を舞台にした小説なんて自分には書けないにきまってる。
 異世界ファンタジー以外に書ける気がしないなあ」

などとおもっていたのですが、まさかその後、
異世界ファンタジーを書かないまま、
作家生活を送ることになるとはおどろきです。
ちなみに作家デビューするきっかけとなった、
『夏と花火と私の死体』という小説を書いたとき、

「今は異世界ファンタジーものの小説ばっかり投稿されてるだろうから、
 毛色の異なるものを書いたほうが審査員の印象にのこるんじゃないかな。
 気乗りしないけど、身の回りの田舎町でも舞台にして書いてみるか。
 自分が書きたいものより、すこしでも賞金にちかづけるものを書こう」

というかんがえがありました。その予想は的中していたようです。
当時の編集者は、異世界ファンタジー小説ばかり投稿されてきて、
辟易していたらしいですよ。
その時期、一般文芸の世界では、
『パラサイト・イヴ』のようなホラーが登場して売れていたのです。
だから編集者はホラーの書き手を探していたみたいです。
異世界ファンタジーで辟易しているところに、
ホラーっぽいものを書く人が投稿してくれたということで、
なんとなく印象がよかったのかもしれないですね。
なかなかのラッキーでデビューさせていただけました。

ところでこのArknoahは、もともとアニメの企画書でした。
何年か前、アニメ会社の方から、
「なにか企画を書いてほしい」と言われてかんがえた世界でした。
いろいろあってボツになり、この企画は流れてしまったのですが、
このまま忘れ去るにはあまりにもったいないとおもい、
何年も過ぎたことだし、ここらで小説にしようとおもったのでした。
といっても、企画書からの流用は世界設定だけで、
主人公やら物語やらは、あたらしくかんがえました。
やっていることは「小説再生工場」の企画とかわらないですよ。
自分のボツ企画をリサイクルしたようなものです。






Arknoahシリーズを書くにあたり、
下記のような本に影響をうけました。

『超芸術トマソン』(ちくま文庫) [文庫]
赤瀬川 原平 (著)

『ティルト・ワールド〈1〉天下無敵の冒険者』
(角川文庫―スニーカー文庫) [文庫]
友野 詳 (著)


『トマソン』は、奇妙な建築物件を紹介した本です。
Arknoahに登場する異世界は、
奇妙な建築物件の部屋が連なってできたような場所なんです。
小説に登場する【意味なし階段】などはこの本からの発想です。
『ティルトワールド』は、十代のころに読んだライトノベルです。
この小説に描かれる異世界は、
ある日、突然、地面が斜めにがくんとかたむいてしまうんです。
なぜそうなってしまったのか? 
その謎を解き明かしに冒険がはじまるというものです。
これを読んだ当時、
「ファンタジーってここまでやっていいんだ!」
と感銘をうけたおぼえがあります。










というわけで、
『Arknoah1 僕のつくった怪物』よろしくおねがいします。


Posted by 乙一 at 00時15分

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